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真田一族のはじまり 真田歴史ミステリー 須坂観光
上田市・真田町観光 松代町観光
 

真田幸隆 真田昌幸 長兄、真田信幸(信之) 弟、真田幸村 真田一族

真田の祖は、信濃で1400年に起こった大塔合戦について書かれた大塔物語に滋野氏という血族内の袮津氏の部下として実田(さなだ)として紹介されています。その後、保元物語、平家物語にも登場しており一族が発展して滋野を姓とする一族が、本家は海野氏を名乗り、その直系の子孫である幸隆が真田の庄に住み真田を名乗ったとされています。真田三代の初代幸隆の諱(いみな)は確実な資料は残っていませんが、高野山蓮華上院過去帳には幸綱とあります。初代幸隆(幸綱)が武田信虎(武田信玄)に敗北し、上野国に亡命していましたが武田晴信が軍師山本勘助を派遣して幸隆を甲斐に招いたとされています。真田三代の戦国時代の活躍はその子、昌幸に継がれ戦国時代の大戦、関ヶ原で真田家が東西に分かれて戦うことに成ります。真田血族を残すための決断とされていますが、兄の信幸が家康に味方し、昌幸と幸村が三成に味方するにも他の理由があったとされるミステリー(後述いたします)もあります。このように真田三代の歴史を当時の戦国時代の信長、秀吉、家康と並べて歴史を辿って観ると当時の武将の生き方が見えてきます。徳川軍を2度も、敗走させた上田城の歴史が真田丸に繋がる幸村の大阪の陣にも繋がっています。昌幸が甲斐武田氏に遣えているときは、7才より人質となり武田家の中で頭角を表し、15才元服前に第四次川中島の戦いで足軽大将を務め、父と兄の信綱、昌輝と並び、武田二十四将にも数えられる。父と兄弟3人が武田二十四将に数えられるような家は、この真田家だけである。この時、昌幸は、兄が家督を継いでいることもあり武藤家に養子にだされている。真田の姓に戻るのは、しばし後になります。(後半の記述をご覧ください。)先ずは、周辺観光の須坂、上田、松代、真田についてご紹介いたします。

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須坂市観光   蔵の町、お酒の町遠藤酒造場

菅平高原の麓、須坂市は蔵の町は明治から昭和初期にかけて製糸業で栄え、町の多くに蔵があり、蔵あるマップ(須坂市観光PDF)が用意されています。
春は桜の臥竜公園の夜桜が湖面に映り、夜店も出る観光名所になっています。米子大瀑布、緋の滝と滝のある風景を眺めるウォーキングイベントも季節によって開催されていますので、ご夫婦でご参加されるのもよいかと思います。

4月 桜巡りウォーク
観光ガイドがご案内、桜百選の臥竜公園、臥竜梅(樹齢300年)など須坂市の桜をめぐり、最後に遠藤酒造場の蔵開きの楽しみもあるガイドがあります。

6月 峰の原高原 花と滝ハイキング(緋の滝) ベニハナイチヤクソウ群生地
約4キロの行程の中に緋の滝、ベニバナイチヤクソウ群生地を見学するハイキングで最後に高原食堂でランチを摂り解散と成ります。峰の原緋の滝は、気軽に出来るトレッキングコースのあり様々な高山植物に出会えるだけで無く、Aコース、Bコースとあり出会える植物も違うのが楽しも方のひとつです。

7月 花の百名山 根子岳トレッキング
根子岳トレッキングは百名山の四阿山の隣にあり、高山植物が多く、花の百名山に挙げられます。花が多く珍しい蝶も見受けられるだけで無く天気の良い日には距離も短くポピュラーな菅平牧場か峰の原高原経由が人気のハイキングコースとなっています。

8月 峰の原オープンガーデンウォーキング

10月 米子大瀑布ハイキング
米子瀑布は2滝の総称で滝の下にある米子不動尊は日本三大不動尊の一つとされ今でも修験者の道場となっています。四阿山の北麓にかかる不動滝(落差85m)と権現滝(落差75m)の深山幽谷の壮大な自然に包まれたこの場所は、当に秘境と言え夏には滝修行の方も見受けられます。
千葉成田の不動尊、新潟の菅谷不動尊と並ぶ三大不動尊です。上杉謙信とも所縁があり古から全国に知られた熊野信仰、山岳修験道の聖地です。

11月 晩秋の食べ歩きウォーキング

豪商の館 田中本家博物館
北信濃の屈指の豪商として藩の財政を上回る財力を持ち、江戸中期からの衣装、漆器、陶磁器、玩具、文書などが展示されています。展示だけで無く食のイベントそれぞれの季節に彩る庭園も公開されております。
歴史に登場する著名人も逗留し、記念の品も多く残っており、過去には葛飾北斎の全46作品の展示なども開催されています。
四季を通して様々な花が咲き、雨の日でも日本家屋の良さが垣間観れる工夫がされており風情ある庭の景色を楽しめます。また季節やイベントに合わせた食事も出来るのも楽しみ方の一つとなっています。

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上田市観光 真田町観光

上田市は真田三代発祥地とされ、今では真田祭りも年に2度も開催されるイベントとなっています。真田武者行列、真田幸村公出陣ねぶたなど数千人の参加による大行列が開催され、一般参加もある大きなイベントとなっています。
古の歴史残る神社仏閣、お城があり、ロマン溢れる散策が楽しめます。

2014から真田三代歴史検定が開催されるなど、さらに歴史ロマン溢れる郷と成りつつあります。
歴史的有名人物の謎は多く、今でも研究されていますが真田三代は、信長、秀吉、家康、長尾景虎、武田信玄などとも関係深く、今なお研究が続けられています。
2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」の戦法の基礎とも成った上田城の徳川軍との戦いを知ることでもより歴史背景が観え、楽しいものとなるでしょう。四阿山の山頂に奥社を置く山家神社、真田の菩提寺の長谷寺、また関ヶ原で西東に別れた真田家の本当の理由や真田忍軍、真田十勇士にもつながる歴史的ミステリーがロマン溢れる旅に誘ってくれることでしょう。(東西に分かれた理由は、子孫を残す為だけではなく、それぞれの奥方との関係もありました。昌幸の奥方と光成の奥方は姉妹、幸村の奥方は秀吉家臣の関係、信幸の奥方は、徳川の幼女、という理由もあり、東西に分かれる事となる。)

3月 北向観音の知恵の団子
春近い3月の末に、毎年大般若経転読会が行われます。本堂で600巻の転読が行われる傍に置いた経のかかった紅白団子が法会の後に参拝者にまかれます。スキー旅行の間に訪問されてはいかがでしょうか。経本を高く持ち上げ一斉にパラパラと下流す光景は見事です。般若とは梵字で知恵の意味を持ち、3月の季節もあり受験生でも賑わいます。

4月~4月下旬 上田城千本桜祭り
上田城は真田昌幸が二度にわたる徳川軍の攻撃を撃退した、上田合戦は有名で戦国の名城が埋め尽くす千本の桜は4月上旬から中旬まで咲き、上田真田まつりでは武者行列の他様々なイベントが開催されます。
上田真田まつり(真田鉄砲隊、上田市獅子奉納、真田武者行列
真田山長谷寺(さなださん ちょうこきじ) 真田幸隆開山した菩提寺のしだれ桜

5月 御屋敷ツツジまつり 真田山城
御屋敷公園は真田氏が上田城築城前に住んでいた館の跡で5月中旬から6月上旬にかけて600株程のツツジが真っ赤に染めます。幸村が兜に使用した赤はこのツツジからの起用だったのかもしれませんね。
赤の鎧は敵味方を明確にするだけで無く自ずと知らずに赤色の存在意識に働きかける強さ、力の作用を知っていたのかもしれませんね。真田鉄砲隊、真田六文銭太鼓などのイベントも開催されます。
この城は真田山城、松尾新城、住連寺城、十林寺の城山などといわれるが、真田氏の本城にふさわしい規模の城であることから、真田町指定文化財史跡名では真田氏本城としており、旧菅平有料道路を、十林字から熊久保へ通ずる道路が横切った北側の、尾根の突端にある。

特徴的なこととして、真田町内の他の城跡に比べ、広大な規模をもっていること。眼下に、小県と北上州を結ぶ上州道を一望におさめることができること。山城に必要な水の手が、熊久保集落の上方の山地から、本城に続く尾根づたいに水を引いてきて、本郭の近くまで引き込んでいることなどがあげられる。

6月中旬~下旬 菅平高原、根子岳、四阿山レンゲツツギ

7月上旬~8月上旬  信濃国分寺 蓮のフェスタin国分寺
信州国分寺本堂北側にある池で毎年7月上旬から8月中旬までハスが咲きます。このハスは大賀ハスであり信州の多くの場所にて見ることができます。

7月 稲倉棚田ほたる火祭り 毎年7月の第3土曜日に開催
日本の棚田百選に選ばれた稲倉棚田では、平成17年から「ほたる火まつり」が行われています。約1000本のロウソクの炎が棚田の輪郭を夜空に浮かび上がらせる幻想的なイベントです。
 
8月 真田まつり 第一土曜日
真田三代所縁の地をめぐる周遊バス、真田六文銭太鼓、御神輿や大阪冬の陣を連想させる『真田軍vs伊達軍』の合戦劇、真田鉄砲隊、花火と賑やかで華のあるお祭りとなっています。

9月 真田幸村公出陣ねぶた
真田一族の忍者隊などの3000名の大行列
真田一族の勇姿を描いた扇形の大灯篭と真田忍者隊3000名の大行列が開催され、参加者も募集されます。

10月 ~11月 角間渓谷の紅葉
真田十勇士の修行の地とされている角間渓谷はみごとな紅葉を魅せてくれます。断崖に囲まれた別世界。

11月 上田城跡公園ケヤキ並木
日本全国に名を馳せた真田氏の居城、上田城跡を中心とした公園で、上田市の観光拠点になっている「上田城跡公園」。樹齢100年といわれるケヤキ並木をはじめ、約千本の桜など花と緑に囲まれたゆったりとした公園

上田城跡能
上田薪能を観る会では、毎年、能楽の公演を企画・開催しています。

1月7~8日 信濃国分寺八日堂縁日
毎年1/7ー8日に行われる信濃国分寺の縁日は、だるま市や露天が多く立ち並び大勢の参拝客で賑わいます。厄除け開運のお守り蘇民将来符が授与されます。

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松代町観光 松代藩 徳川についた真田信之(この時信之に改名)

松城は武田信玄が上杉謙信との戦に備え、山本勘助に作らせた海津城(松代城)、築城時期は不明ですが1560年に完成していたと考えられています。
1560年築城 武田信玄の上杉謙信の最前線として始まり武田氏滅亡後は織田家家臣の居城と成りますが本能寺の変が起こると放棄され、上杉軍の支配と成ります。

海津城について(海津城→侍城→松城→松代城)と名前が変わる
1598年上杉景勝が会津に転出の際、豊臣家臣(田丸直昌)が城主と成ります。
1600年 森忠政入封(森長可、森成利=蘭丸の父)海津城から侍城と改名される
1603-1616 松平忠輝入封 この間に侍城から松城に改名
1616-1618松平忠輝改易の後、松平忠昌
1619-1622 酒井忠勝
1622-真田10代が城主
初代真田 松代藩主 真田信之(信幸が家康に忠誠を尽くすとして改名)
二代藩主 真田信政(信之次男)
       1600年の関ヶ原の時、家康の人質として遣わされた
三代藩主 真田幸道 信政の六男
        幕府からの多大の課役の従事し藩財政が困窮
        1711 真田三代藩主幸美道の時、幕名で松代城と改名 1903真田幸民まで続きます。
信之は上田藩時代より蓄財した20万両という大金をもって入封し、当初は裕福であったが、3代幸道の時代、幕府による度重なる手伝普請などの賦役により信之の遺産を使い果たした。また、1717年(享保2年)松代城下は大火に見舞われ復興に幕府より1万両を借り受け、逆に借財を抱えるようになった。

四代藩主 真田信弘 信弘の長男だが三代幸道の養子として藩主になる。
       財政貧窮4代信弘は質素倹約を旨とし財政は持ち直した。

五代藩主 真田伊豆守信安(信安) 信弘の次男
5代信安の時代の1742年(寛保2年)松代城下を襲う水害に見舞われた(戌の満水 )。この際、再び幕府より1万両を借財し千曲川の河川改修が行われた。これにより松代城下は水害に見舞われなくなったが、再び財政は悪化した。信安は河川改修の中心となった原八郎五郎を家老に抜擢し、家臣給与の半知借上、年貢の前倒し徴収を行うなどの財政再建に努めた。しかしこれが家臣の反発を招き、1744年(延享元年)足軽によるストライキという全国的にも極めて稀な事態となる。1751年(宝暦元年)には不正を行った原八郎五郎を罷免し、代わって赤穂藩浪人と称する田村半右衛門を勝手方として召し抱え財政再建に当たらせるが、、性急な改革は農民の反発を招き、同年には「田村騒動」と呼ばれる藩内初の一揆が起こっています。田村もまた汚職を行ったとして、同年に江戸に逃亡したところを捕らえられた

六代藩主 。真田幸弘 信安の子
       藩財政建て直しに恩田木民親(おんだもくたみちか)財政再建効果
信安の後、藩主となった幸弘は、1757年(宝暦7年)家老の恩田木工を勝手方に据え財政再建に当たらせた。木工の5年間の在任中、めざましい成果は得られなかったが、藩士・領民の財政再建に対する意識を改革したということでは、ある程度の功績を得られたといえる。幸弘は1758年(宝暦8年)藩校「文学館」を開いている。

七代藩主 真田幸専(ゆきたか) 彦根藩井伊直幸(なおひで)の四男 幸弘の養子
       幕府からの課役、御用を務め財政貧窮

八代藩主 真田幸貫 白川藩主松平定信の次男 幸専の養子
       この時幕府の重臣に成るのは、養子元の松平の影響もあったように思います。
8代藩主真田幸貫が8代将軍徳川吉宗の孫である松平定信の実子(定信は、寛政の改革を主導)
この実子の特権? 幸貫以降真田家は国主以外で自分の領地の国主名を名乗れるという特権を得ている。また、幕末の奇才と言われた佐久間象山を登用した、しかし今度は天変地異の1847年(弘化4年)善光寺地震が起こり復旧資金の借り入れにより、藩債は10万両に達した。

九代藩主 真田幸教(ゆきのり) 幸貫の孫 18歳で藩主になるが病弱で35歳で没
       参勤交代制の緩和で財政が建て直される事で幕府の普請なども減り少し財政も良くなる
ペリーの浦賀来航時に横浜の応接場の警備を命じられ、その後も江戸湾の第六台場等の警備などを務めたことで、藩財政は破綻寸前となった。

十代藩主 真田幸民(ゆきとも) 宇和島藩主伊達宗城の長男 幸教の養子
明治維新の際、藩は早くから倒幕で藩論が一致し、朝廷から信濃全藩の触れ頭役を命じられた。戊辰戦争には新政府軍に参加して多大な軍功を挙げた1871年(明治4年)廃藩置県により松代県となり、その後、長野県に編入された。


1872廃城 跡地は藩士に払う下げられ桑畑として開墾される。
1904藩士に分け与えられていた土地を真田幸正(幸民の長男)が買い取り本丸跡地を公園とした。

長谷寺と長国寺の関係
長谷寺(真田山ちょうこくじ)は、真田幸隆が創建1600年の上田合戦で消失し1622年松代に真田信之が移されると当時の長谷寺の住職を開山として松代に建立された。その後の長谷寺は土砂災害、再度の火災で消失し現在は1978年に再建されています。長谷寺は真田町長国寺は松代にあります。

松代藩文武学校
八代藩主 真田幸貫が文武奨励を目的として学校建設の準備に着手、九代 真田幸教が学校建設に取り掛かり、授業では西洋医学、西洋砲術の科目があり学問水準が高かったことがうかがえます。

真田邸
九代藩主 幸教が義理の母お貞の方の住居として建築し、やがて隠居した幸教の住居となる、その後の真田私宅と成りますが、昭和46年真田家の伝来の宝ものとともに長野市に譲渡され現在に至っています。
当時の武家屋敷の面影が色濃く残り日本庭園が四季折々の彩りと風情を楽しむ事ができます。

真田宝物館
家宝の武具、調度品、文書、美術品を所蔵 真田家十二代当主幸治氏から昭和41年に譲られた様々な提示物5万点があり。信玄、信長、秀吉、家康などの書状なども展示

松代藩真田十万石まつり
松代の秋祭りの一つに真田十万石まつりがあります、真田大行列には参加者が募集され、お姫様、武者、馬上武者などの参加者による行列があります。あなたもお姫様、藩主や家臣、槍振り隊、憧れた隊などに参加して見ませんか。
この祭りには、松代の信州真田家当主の殿仙台真田家の当主の殿も馬に乗り行列に参加します。

象山神社
佐久間象山を祀る神社、幕末の先駆者であり教育に尽力、41歳の時江戸に塾を開き勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰、橋下左内など維新の英才を排出しています。6歳から学び、20歳で詩文経書、文武の免許を持ち秀才。学問の神社

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真田一族に関係する歴史ミステリー

 ■真田一族の1600年前後の歴史
 ■第一次上田合戦(真田昌幸、信幸、幸村 1200 VS  德川軍 7000) 真田の勝利
 ■第二次上田合戦(西軍側 昌幸、幸村 3500 VS 德川軍・信幸 3万8000) 昌幸・幸村の勝利
 ■歴史ミステリーその1【なぜ、真田一族が東西に分裂したのか。】
 ■歴史ミステリーその2【関ヶ原の戦いに大きく関与する秀頼は、誰の子だったのか】
 ■歴史ミステリーその3【淀も浅井三姉妹とされているが実は、浅井の子供ではなかった】
 ■歴史ミステリーその4【幸村は、なぜ夏の陣で死ぬと判っていて突撃したのか】
 ■歴史ミステリーその5【兄弟対決ので幸村と昌幸が行った信幸に対する心配り】
 ■歴史ミステリーその6【幸村の子孫は、なぜ生き延びれたのか】

真田一族が一大決心した1600年関ヶ原の戦い直前、天下取りに野心燃やす徳川家康と秀吉の腹心だった石田三成の対立が激化し東軍(家康)と西軍(三成)に分かれ戦国時代の最終決戦を迎えることになったのは皆さんも良くご存知だと思います。日本史を学校で学んでも縦の時間軸だけを教わりますが、横の時間軸(同時期になにがあったか)が繋がらないことで歴史に興味を持たない方もいらっしゃるのではないでしょうか。

NHKの歴史大河ドラマも何度も繰り返されて、その中に横時間軸となる人物がいても記憶に残らないものですが、同じ時代に誰が誰と何をしていたのかを知ることで、もっと興味深く、楽しいものになってきます。この時、1600年のもう少し早く、世に出ていれば伊達政宗が天下をとっていたという話もあります。この伊達政宗は真田幸村の教叔父にもあたり大阪夏の陣で戦死した幸村の子供を伊達家家臣がかくまったことで現在も脈々と幸村の血筋も現代につながっています。兄信幸(信之)が松代真田家、幸村の子孫が仙台真田家に繋がります。歴史のなかに埋れたロマンを辿る旅も良いものではありませんか。

例えば、川中島の戦いのあった時代 1553~1564に武田信玄と上杉謙信が戦っていた頃、織田信長は何をしていたかと言うと1560年6月12日今川義朝を打ち取り(桶狭間の戦い)大四次川中島の戦いにも影響を与えています。桶狭間の戦いで今川氏は隠居の身ながら影響力があった今川義元を失い、三河の松平氏の離反により勢力を急激に衰退します。信長はそれを機に支配から独立した松平氏(この時に改名=松平元康から徳川家康)と敵対関係から美濃国の斎藤攻略の為、また家康は今川氏の支配からの対抗の為1563年清洲同盟を結ぶ。1564年斎藤道三亡き後の斎藤龍興に勝利し、1564年浅井長政と同盟を結び、1567年11月には天下布武の意により天下取りを目指す。

武田信玄の四男に養女を娶らせ同盟を結び南蛮貿易に力を注ぐ。本能寺の変までは皆様がよくご存知のことと思います。さて真田一族の話になぜ信長や武田信玄、川中島の戦いが関係するかと言うと、ここに7歳で甲斐武田家に人質として武田晴信(武田信玄)の奥近衛衆として真田昌幸が加わったことから真田家の活躍が目覚ましいものになってきます。初陣は第四次川中島の戦いで足軽大将として戦い15歳の元服前に出陣していた可能性もあります(甲陽軍鑑)武田勝頼の時代に1575年の長篠の戦いで長兄、次兄が討死し家督を継ぐ、1582年信長、家康連合軍の甲斐征伐で武田氏滅亡前頃から北条氏直との接触を始めていた記録が残っています。
織田信長の本格的侵攻(甲州征伐)により、天正10年(1582年)3月11日、嫡男信勝とともに天目山で自害。これにより平安時代から続く甲斐武田氏は(戦国大名家としては)滅亡した。

昌幸は、武田氏滅亡後、織田信長の家臣
となり、自分の領地を守った。しかし僅か3ヶ月1582年6/2本能寺の変が起こります、昌幸は、これを好機として旧武田氏家臣を取り込み、6/10には真田領の四阿山白山神社の宝蔵院に寺領を寄進。6/19、戦いで留守になっている沼田城を奪回します。(織田信長により武田氏が滅亡した時、滝川一益の重臣の城だったが、北条氏直が滝川一益を破ると沼田城を奪回、この時滝川一益を諏訪まで送っています)見事な、賢さでしょう。同時期に上杉景勝も北信に進軍し6/24長尾城に入ると昌幸は上杉景勝に従臣するが、7/9には北条氏直に降った。、、すごい早業ですよね。これがのちに秀吉に表裏卑怯の者成りと言われる所以です、しかし領地、領民を守らなければならなかった戦国時代には知将とされたのも理解出来ることですね。上杉が新発田重家に対処する為に越後に戻ると沼田状に戻り9/25北条氏に抵抗していた春日城主を介して家康方となる。突如北条氏直を裏切るのです。しかし家康と氏直が和睦の条件として沼田城を譲渡するということを聞いて、反発し徳川と北条に敵対していた上杉景勝に臣従。この変わり身の速さと臣従する交渉力は、知将と呼ばれるのも納得です。
武田家臣~織田家臣~同年6/24上杉景勝に従臣~7/9に北条氏直に降り~9/25徳川家康に従臣~上杉景勝に従臣、たった6ケ月の間に織田~上杉~北条~徳川~上杉と何度も主君を変えている、この中で上杉景勝には、2度目には、どう大義名分もって取り入れてもらったのでしょう。ここには直江兼次の働きと助言もあったことでしょう。
沼田城を譲渡する時より、この機を元に1583年、徳川との対立と成ります。

---ここで上記を少し整理すると---真田昌幸は、従臣として主君を以下のように変えています。
   武田家→北条氏に接触→織田家→上杉家→北条氏→德川家→上杉家
1572年 2月4日 昌幸は、信玄の奉行人として列している
1574年 4月 信玄病死で武田勝頼に仕える。
1574年 真田幸隆死去で家督は長兄、真田信綱が継ぐ
1575年 5月21日 長篠の戦いで長兄、次兄が討死すると昌幸は家督を継ぐ。
この時武田家従臣、高坂昌信(海図城主)の支援で武田勝頼が真田性に復姓名するのを認めている。それまでは、武田氏の元では信玄の母方の大井氏の士族、武藤家の養子と成り、武藤喜兵衛(昌幸)と称し足軽大将をしていた。海津城はのちの上田城、高坂昌信=春日虎綱は、武田家四天王。

1553年上杉に対する最前線の海図城の守将を任され、第四次川中島の戦いで活躍。
      上杉に内通し粛清された香坂氏の名跡継承を許され香坂氏の養子に成る。
1573年4月信玄死去後、勝頼に海図城代として上杉氏の抑えになる。
1582年 3月 武田勝頼から北条氏直に寝返り交渉を隠密に接触
      信長、家康連合軍による甲斐征伐で武田氏滅亡前に既に北条氏直に接触。
1582年3/11織田信長の本格的侵攻(甲州征伐)
      3月11日、嫡男信勝とともに天目山で自害。
      これにより平安時代から続く甲斐武田氏は滅亡。武田滅亡後は、織田の家臣となります。
1582年6/2本能寺の変が起こり、これを好機として旧武田氏家臣を取り込み、
     6/10には真田領の四阿山白山神社の宝蔵院に寺領を寄進。
     6/19、戦いで留守になっている沼田城を奪回する。
(織田信長により武田氏が滅亡した時、滝川一益の重臣の城だったが、北条氏直が滝川一益を破ると沼田城を奪回、この時滝川一益を諏訪まで送っています)
     6/24上杉景勝が北信に進軍し長尾城に入ると昌幸は上杉景勝に従臣
     7/9には北条氏直に降った。すごい早業ですよね。
               これがのちに秀吉に表裏卑怯の者成りと言われる所以です
     9/25北条氏に抵抗していた春日城主を介して家康方となる。突如北条氏直を裏切るのです。
      しかし家康と氏直が和睦の条件として沼田城を譲渡するということを聞いて徳川に反発。
      家康と北条に敵対していた上杉景勝に従臣

ここで徳川と最初の敵対関係になり、第一次上田合戦で徳川軍に勝利します。原因は、せっかく奪回した沼田城の譲渡に反発してのことでした。
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■第一次上田合戦■
10月には徳川家康と北条氏直の間で和睦が成立するが、その和睦条件として徳川傘下の真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧したが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由に拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と通じた。翌天正11年(1583年)から昌幸は上田城の築城に着手しており、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。同年7月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知ると八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら德川軍約7000の兵を真田氏の本拠・上田城を攻める。真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死(ゲリラ戦を得意とする兄信幸、真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる一方、真田軍は40人ほどの犠牲

翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍5000を出すと共に一時撤退を下令これを受け徳川軍は28日に上田より撤退した。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣が豊臣家に出奔する事態に至り、完全撤退となる。この戦いで家康は、昌幸が優れた智将であると評している。。また、この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を真田信之へ嫁がせ懐柔するきっかけともなった。秀吉によって天下統一がなされ秀吉の元で昌幸は家康と和睦し再び家康に使えることになります。この時秀吉によって領地は、保障され6万5千石を維持される。
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■第二次上田合戦
昌幸や家康、上杉は豊臣政権に臣従していたが、北条氏が小田原征伐により没落すると家康は三河から関東に移封された。1598年秀吉が死去し、豊臣政権では五大老筆頭の地位にあった家康の影響力が強まると反徳川勢力は五奉行の石田三成を中心に結集し、慶長5年(1600年)6月、家康が会津の上杉征伐の兵を起こして大坂を離れると、三成は毛利輝元を総大将として西軍を組織し挙兵した(関ヶ原の戦い)。昌幸は東軍を率いる家康に従っていたが、慶長5年(1600年)7月下旬、真田信繁(幸村)とともに離反して上田に帰還し西軍に与した。これに対し、長男の信幸は東軍に従った。通説では、西東軍どちらが勝利しても真田一族が残れるよう分かれたとされる。しかし近年は信之の妻が家康の養女であり、信繁(幸村)の妻は秀吉重臣、大谷吉継の娘で昌幸の妻が石田三成の妻とは姉妹の関係にあったことが理由と指摘されている。

徳川家康率いる東軍3万5000は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知って、軍を西に向ける。この時、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠率いる3万8000人の軍勢は中山道を進んで西に向かった。そしてその進路に、真田父子が立て篭もる上田城があった。
秀忠は、昌幸の嫡男・信幸と本多忠政(信幸の正室・小松姫の弟)に命じて、昌幸に対して開城を求めるが昌幸は城の掃除をするという理由にて、のらりくらりと返事を先延ばしにして、時間稼ぎに徹し兵糧を準備し立て籠もりの準備ができたところで、「返答を延ばしていたのは篭城の準備の為でござった。充分に仕度は出来たので、恩ある豊臣に対し戦い討死する覚悟なので一合戦つかまつろう」というものだったのです。あまりに大胆不敵な宣戦布告に、秀忠は怒って上田城攻略を決意したとされる。この時、本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政などは真田には、構わず、上田城を黙殺して関ヶ原に急ぐべきだと進言するが、兵力差が圧倒的だったこと、土井利勝を始めとした戦場に疎い将が多かったことと、さらに第一次上田合戦で真田軍に負け恨む者が多かったこともあり、秀忠の決断を覆すことは出来なかった。

これこそまさに昌幸の思う壺だった。昌幸の目的はあくまでも時間稼ぎ。この時点ですでに戦わずして秀忠隊を3日間足止めしており、さらにあからさまな挑発を加えることによって徳川方に揺さぶりをかけた。仮に徳川勢が挑発に乗らず、上田城を素通りしたとしても、すでに3日の足止めに成功し、役目は充分に果たしている。逆に挑発に乗って攻めて来れば、城に籠もって持久戦に徹し、さらに余分な時間が稼げるわけである。家康隊との合流を急ぎたい秀忠隊の事情を考えれば長期戦が行えないことは明らかであり、兵力で圧倒されていようとも、城に籠もって数日間持ちこたえれば徳川勢は引き上げるだろう、と昌幸は踏んでいた。短期決戦を行うしかない徳川勢の採れる戦術は自ずと限られ、その分戦術を推察し易く攻めるにも仕掛けし易いと考えられました。しかも総大将の秀忠はこれが初陣であり、戦術的には、恐れるに足りずだったのかも知れません。

秀忠軍は小諸から上田城の東にある染谷台に陣を移し、真田信繁(幸村)の守る上田城の支城・戸石城に対し、信繁(幸村)の兄である信幸の軍勢を差し向ける。徳川首脳陣には真田一族である信幸に疑念を覚える者が多く、あえて実弟と戦わせることによって信幸の心中を試すと同時に万が一に備えて上田城攻めから遠ざけようとしたと言われている。迫り来る軍勢の大将が兄である事を知った信繁(幸村)は兄弟で争う事を嫌い、あっさりと城を捨て上田城に引き上げた。信幸軍は戦わずして戸石城を接収し、勝利する。信繁(幸村)が、父弟が敵方に回り、東軍内での立場が危うかった信幸に手柄を上げさせ、信幸に対する秀忠の信用を高めようとしたため、また、信幸軍を戸石城に釘付けにする事により、結果的に上田城に攻め寄せるであろう兵を減殺すると同時に、信幸を上田城攻めから外させ、真田一族での同士討ちを回避しようとしたためと言われている。事実、信繁が戦わずして戸石城を信幸に明け渡したことにより、東西両軍の真田勢も城も傷つかずに済んでいる
秀忠軍は早速上田城の攻略に取り掛かる。短期決戦を狙う秀忠は、真田軍を城から誘き出すため城下の田畑の稲を刈り取る苅田戦法(※1)を取り、9月8日、牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始めた。徳川方の狙い通り、苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から飛び出してきた。そこへ、後備えとして潜んでいた本多忠政隊が襲い掛かり、真田勢はあっさりと敗れ、上田城へと逃走。それを酒井、牧野、本多の各隊が追撃し、一気に上田城の大手門前まで迫った。

(※1苅田戦法)
徳川軍は苅田戦法に出た。これはそれまで大事に作ってきた米などの作物を攻め方が獲ることによって城に立てこもった兵士達(農民も混じっている)を怒らせ、農作物を盗んでいる兵士を囮にし城内から打って出た兵を待ち伏せて討ち取り、さらに門がひらいた城になだれこもうという作戦である。それを見抜いていたであろう昌幸は、あえて徳川方の作戦にのった。それは、農作物をとっている徳川の兵士に城内から討って出ると思惑の通りに、徳川の伏兵(主力部隊)が出てきたら徐々に退きつつ城下まで誘い込み、逆に伏せていた味方の伏兵を出しさらに城内から鉄砲で射撃し城門からも一斉に討ってでた。第一次上田城の戦いと同じような展開になった。幸村もひとつの部隊として活躍している。

全てその流れを見越した昌幸の作戦であり、徳川勢が上田城の大手門へと迫ったとき、突如として門が開き、門の向こう側で待ち構えていた真田の鉄砲隊が一斉射撃を浴びせ、さらに城内からも銃矢が降り注ぎ、徳川方の先鋒は大混乱に陥った。
功を焦った徳川勢は逃走する真田勢を遮二無二追撃していたため、大手門に到達した時は隊列・陣形を崩していた德川軍はこのために、反撃を浴びた先鋒隊が撤退しようとするも、勢いで前進して来る後続の軍勢と鉢合わせになり進退窮まったところへ、城内から真田勢が討て出て徳川軍を散々に打ち破った。(今でいう人の重なりでの圧死も多数でていたそうな)

さらに昌幸は徳川勢に追い打ちをかけた。前日の夜に密かに上田城を出て潜んでいた信繁隊200が秀忠本陣に奇襲をかけ鉄砲を一斉に撃ちかけ、秀忠自身は、辛うじて小諸へと逃れた。また昌幸は神川の上流に堤防を築き、神川を密かに塞き止めており、信繁の合図で堤防が切られると、大量の水が濁流となって染谷台に押し寄せ、真田勢に追われていた神川付近の多くの徳川勢の人馬が飲み込まれる事となり、第二次上田合戦はわずか1日で真田方の大勝に終わった。
9/8になって家康の書状を携えた使者が到着し、驚愕した秀忠は上田城に押さえの兵を残して先を急ぐことにするが。道中の悪天候も災いして、遂に9月15日の関ヶ原本戦に遅参するという大失態を犯してしまった。
関ヶ原の戦いが西軍の敗北に終わり、西軍に与した昌幸と信繁(幸村)は戦後処理で死罪を命じられたが、信幸とその岳父である本多忠勝の助命嘆願などもあって、一命を助けられてはじめ高野山、のち信繁(幸村)が妻を同行させることを願ったため九度山に流罪となった。   
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そののち、大阪の陣の為に脱走し、再び徳川郡を苦戦させる真田丸の戦いに繋がることとなります。



■歴史ミステリーその1【なぜ、真田一族が東西に分裂したのか。】
 慶長5年1600年7月21日石田三成が挙兵するが、真田家のキーパーソンとして昌幸に石田三成に味方すように書状を出す、その時真田家は、德川家康率いる上杉征伐軍として会津に向け犬伏に進軍している最中でした。当時真田家は、戦国武将として知略に優れており東西両軍にとっても重要な大名であった、真田昌幸(54才)は、軍略家として有名で秀吉には、『表裏比興の者=くわせ者』卑怯ではなく謀略に優れたものとして賛辞している。また兄信幸(35才)は、ゲリラ戦の名手で弟幸村(34才)は後に日の本一の兵と言われる武将でした。六文銭の意味は三途の川の渡し賃と言われいつでも死ねる覚悟でいるというものでした。どちらに味方するかは、互いに智将であれば、分かるものと石田三成も家康も考えていたが、真田家の一族会議にて東西に分かれて戦うことになる、その時どちらに味方するかは、勝てそうな方に着くのが筋です。当時、徳川家康256万石、石田三成19万石ですが、大阪城が控えていること、その他に毛利輝元、宇喜多秀家が居ることを考慮すると勢力的には、西軍の方が大きいと判断したのかも知れません、しかし近年の研究では、信幸の奥方(小松姫)は、徳川家臣、本田忠勝であり家康の幼女となって嫁いでいます。幸村の奥方(竹林院)は、秀吉に仕え光成と親しい大谷吉継の娘であり、父昌幸の奥方(山之手殿)と石田三成の奥方(宇田頼忠の娘)は、姉妹でした。石田三成は、家康に勝ったら『信濃』『上野』『甲斐』の103万石を昌幸に任せたいとして誘っています。このような状況で真田家は、東西に分かれて戦をする事になりました。更に昌幸は德川に二度勝っていること、戦国の世だからこそ、自分の知力で西軍が勝てば、権力も恩賞も大きなものとなると考えたのかも知れません。
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■歴史ミステリーその2【関ヶ原の戦いに大きく関与する秀頼は、誰の子だったのか】
記録に残る秀吉と秀頼の身長は、以下のように比較できる。
 秀頼 身長6尺5寸(197cm) 体重43貫(161kg)
 秀吉 身長 推定150cm前後
この数値は、極端に違い秀吉57才の時に次男として誕生したが母は側室の淀です。秀吉には、大阪城だけでも側室が16人居たが子供は授かっていない。では何故に淀にだけ子供ができたのか、また体格の差の大きな違いがある、とすると・・・。秀頼誕生時(1593年8月3日)から逆算して前年10月頃に淀に近づくことができた人物となります。ある程度の地位があったものと考えると石田三成片桐且元大野治長が考えられるが、石田三成は1592年6月~翌年月まで、片桐且元は、1592年9月~翌年10月迄文禄の役で朝鮮に出兵していました。大野治長は、淀の乳母の子供で幼い時から面識もあり大阪夏の陣では、淀と秀頼をたすけてくれれば大野治長を始め、みな切腹しますと家康に願った記録が残っています。更に大野治長について他の古文書では、淀と密通するという事件を起こしている では、何故、そこまで危険を冒して子供を作ったのか、淀は、浅井の娘でなく信長と市のむすめであったという史実もあり、大野の家系は元は織田の家臣であったこともあり織田家再興の思惑があったのかも知れません。では秀吉は、余りにも似ていない秀頼を自分の子供としたのか、そこには織田の正当な後継者であること、織田信長の子供を娶ることで権力をより堅実にしたかったのもあると思われます。また戦国一番の美女であったお市に似てやはり美女であったろうと予想される。秀吉は最初は自分の子供と思ったかも知れませんが、後には知っていたと思われます。自分の子供宛てに自分の書で敬称を使うことはありません。
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■歴史ミステリーその3【淀も浅井三姉妹とされているが実は、浅井の子供ではなかった】
淀は、信長の妹のお市と浅井長政の長女として生まれているが、浅井三代記に書かれている内容には、淀の出生には記載が無い、また次女とされるお初に初という名前を付けたのも意味がある。信長と長政の交流は、信長との仲介を依頼した手紙から始まる、その手紙は1566年7月17日となっています。なのに淀が生まれたのは、1566年であり淀は長政の子供では無いことが研究から明確になってきています。では、誰の子供だったのか?
秀吉家族に宛てた手紙は自筆で書くのですが、その手紙には、秀吉は、自分の息子である秀頼に送った手紙に『おひろいさま』(後の秀頼)に敬称の「お」をつけて送り全ての手紙に「おひろいさま」とつけられており秀吉は、秀頼は自分の子で無いこと、淀自身が長政の子供でなく信長の血筋であったことを知っていたことになります。また淀のお籠には、織田家の家紋がついています。戦国一の美女のお市の方は、忍者で信長の愛人だったとされています。北ノ庄で自害したはずのお市は、足羽川を下り逃げており三重県伊賀に遺骨があるとされています。お市が忍者である痕跡は、1568年8月浅井家を訪問した信長はお市と二人きりで親密にされていたと浅井三代記に記載されている。またスパイとされる痕跡は、浅井の裏切りを知らせたあずき袋や一向一揆の終息にも情報を集めていた、信長は浅井家を攻める心中を『武功夜話』に市えの情だけは捨てられぬ」と記している、また多くの女性の素性を記した以貴小伝には、お市の三女お江与の項目に『お市は信長の従姉妹なり』としるされており実際は兄妹では無く従姉妹であったとされています。
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■歴史ミステリーその4【幸村は、なぜ夏の陣で死ぬと判っていて突撃したのか】
西軍の敗北で昌幸と幸村は、家族も含めて九度山(和歌山)に幽閉され貧しい暮らしを続けます。本来処刑されるものを信幸(信之)等の嘆願により刑も軽減される。昌幸、幸村とその家臣約100名が九度山で生活したとされています。生活は苦しく信之の援助もありましたが幽閉の中、不遇の中、友人に焼酎を壺に入れて送って欲しいと手紙を書いています。苦しい家計を支える為に幸村の家族は内職をしており、その時に『真田紐』を作っていました。時代劇でよく見る荷物を背負うときの紐であり、現在のバッグの巾のある紐と同じものと考えると理解できると思います。この生活を10年過ぎ、父昌幸が死に、生きる糧を失いつつあった時1614年乱世が再び起きます。家康は豊臣を潰そうと画策しており、秀吉が建立した方広寺は地震により倒壊し家康の命令で秀頼が再建します。
この方広寺の鐘の文字の国家安康とあることに文句を付けており、この事件にも幸村は憤りをもっていました。

秀頼は使者を幸村に送り味方を頼み、5000の兵の指揮と黄金300枚、銀30貫目を支度金と支度金として持参しています。(現在の金額で9億とされています)幸村は、生きる糧を見つけ武士として頼ってくれた秀頼に感謝し家康と戦うことを決起するのに新しい希望が湧いた瞬間でした。家族で家康の監視の目を盗み九度山を脱出。監視する農民が見て見ぬふりをしていたとも言われています。九度山では、碁を打ち、みんなと酒盛りをしていたので慕われていたと考えられます。村人たちは、幸村の為に最後の花道を作ってあげたという事でしょう。大阪冬の陣では、実践経験のある幸村が堀の無い城外で迎え撃つ戦いを行いました。それが真田丸です。(既に実践経験のない家臣が多く、実践経験のある幸村は豊臣方では、一番の頼りになる武将だったのでしょう。家康は、幸村に冬の陣の最中に寝返るよう誘います、その寝返りには十万石を与えるとした、これには幸村を腹をより立てますが、家康は、十万石で納得できないのであれば、信濃一国を与えるとした事で更に幸村は憤ることになります。
幸村は真田丸で德川軍15000人を倒し優位に戦略を進めますが、和睦が図られ幸村は反対しますが実戦経験の少ない重臣が多く結局和睦に向かいます。家康はこの、このどさくさに紛れて大阪城全ての堀を埋めてしまます。これが幸村を決定的に怒らせました。翌年1615年大阪夏の陣で大阪城を德川軍は15万軍で囲み、豊臣5万軍として戦うこととなる。この時、幸村は真田軍は武器から甲冑まで全て赤色に染めさせました。何故赤だったのでしょう。現在の色の観点から赤は力を発揮する色と言われています。知っていたとは思いませんが、相手にも目立つだけでなく、自軍の中で逃げ出す者を亡くす戦略もあったのかも知れません。赤色効果は、『膨張色』『進出色』実際よりも大きく見せられること距離感が近くに感じる効果があり対戦相手が目の前に迫ってきていることを示す色にもなります。家康は、堀も埋め15万軍で攻めているので直ぐに終結すると考え3日分の食料だけでした。
ところが、全軍対決になると幸村は家康本陣に突撃して家康の首だけを狙うのみとした戦い方で3000の兵で直進するその距離4キロ、その間には敵方が何万もいるのに3000の兵が赤色で一機に押し寄せると德川軍はその勢いに押され幸村は本陣家康を追い詰める、目の前に幸村がいることで家康は死を覚悟したとされます。間一髪幸村の一撃を逃れ幸村は家康の首を採れなかった。最後は討死するがその最後の覚悟として德川軍にも賛美され日の本一の兵と呼ばれるようになります。
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■歴史ミステリーその5【兄弟対決ので幸村と昌幸が行った信幸に対する心配り】
第二次上田合戦で信幸に攻めさせた時、幸村は逃げ帰り、德川軍にいる信幸に手柄を立てさせ、真田兄弟の同志討ちと德川軍の中でも生きる道を残すようにしています。徳川首脳陣には真田一族である信幸に疑念を覚える者が多く、あえて実弟と戦わせることによって信幸の心中を試すと同時に万が一に備えて上田城攻めから遠ざけようとしたと言われている。
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■歴史ミステリーその6【幸村の子孫は、なぜ生き延びれたのか】
日の本一の兵であり、義理と人情の家族思いの子孫は、多くの大名などから引手あまたであり、幼女、正室、側室として良縁に恵まれています。男児もそれぞれが良い藩に仕官できています。

幸村は大阪夏の陣の突撃の前に娘(長女 すへ)の婿に送った手紙に自分は討死するだろう、もう二度と会うことは無いが娘のことは至らぬことがあっても見捨てないでくれと書いている。家族を大切に思う人柄が忍ばれます。
幸村の子供は、4男8女がいます。長男大助は、14才で大阪の陣で自害する。幼い子供の一男四女は、伊達政宗の重臣片倉小十郎に仙台藩に匿うが、德川に知られてしまう。しかし仙台藩では、男の子の大八は、石に当たり死んだ事にしました。大八は匿われていた片倉小十郎の姓を名乗り片倉守信と名乗り仙台藩に使える。その子、辰信(ときのぶ)の時にそろそろ德川にも知れても問題ないだろうと真田に復姓します。ここから仙台真田家がつづき現在13代真田徹として殿と呼ばれています。

---日の本一の兵の子供等は良縁、良縁組に恵まれ早世した以外は、多くが生きながらえています---
長女 すへ 信州上田で生まれ。祖父堀田作兵衛興重の養女として小県郡長窪の郷土石合十蔵道定に嫁ぐ。寛永19年(1642年)死去

次女 於市 信州上田で生まれ。慶長5年(1600年)12月に父、幸村が幽閉地の紀州九度山に伴った唯一の子女である。その後九度山において早世したとされている。 没年・埋葬地は不明。

長男 大助(幸昌) 慶長6年(1601年) 九度山で生まれる。
父幸村と共に大坂の陣に参陣。冬の陣で真田丸における戦闘で東の木戸から500の兵を率いて打って出て、見事な初陣を果たす。夏の陣では、幸村が戦死した翌日の5月8日、秀頼親子と共に自害。享年15歳。

三女 阿梅 慶長9年(1604年)九度山で生まれる。
大坂の陣で片倉重奈綱の陣に投降(12歳)。
元和6年(1620年)重綱の後室となる。(17歳)
天和元年(1681年)78歳で死去。
5/7德川軍として参陣していた伊達政宗家臣、片倉小十郎(重長)に三女阿梅が送り届けられ、幸村討死の後一人の男児と三人の女をつれてきました。幸村がこの数名を片倉小十郎に託すと残しています。阿梅は片倉小十郎の継室となっています。

四女 なほ 御田姫(なほ)は、阿梅と同年(慶長9年)九度山で生まれる。
大坂の陣前、母と共に京の曾祖母瑞龍院に避難。出羽亀田藩主岩城但馬守宣隆に嫁ぐ
寛永12年(1635年)32歳 江戸で死去

五女 あぐり 九度山で生まれる。大坂の夏の陣後、母大谷氏と共に捕らえられる。
叔父滝川三九郎の養女として蒲生氏郷の老臣蒲生源佐衛門郷喜の子郷明に嫁ぐ。寛永10年(1633年)主家である蒲生氏が断絶。日向延岡に移るが、あぐりの消息不明。

六女 おかね 九度山で生まれる。大坂の夏の陣後に奥州白石で養育された幸村子女五人の1人。
茶人の元犬山城城主 石川備前守貞清(宗林)の子、藤右衛門重正(宗雲)に嫁ぐ。京に移住した。明暦3年(1657年)に死去

七女 阿菖蒲 九度山で生まれる。大坂の夏の陣後に奥州白石で養育された。初め青木次郎飢右衛門室。のち片倉重綱と阿梅の養女として伊達正宗の正室、田村氏の一族、片倉金兵衛定廣に再嫁ぐ。寛文4年(1664年)死去。

八女 <名前不明>九度山で生まれる。大坂の夏の陣後に奥州白石で養育された「仙台真田系譜」には「貞閑早世当信寺に葬る

二男 大介 大介(片倉守信)慶長17年(1612年)九度山で生まれる。
片倉氏に保護養育された。寛永17年(1640年)仙台藩士に列し、江戸御番組、馬上役となる。
寛文3年(1663年)武頭(足軽隊長)で復職。
同年10月6日、59歳で死去
德川に匿っていた事がにばれた時、大八は、京都の印地打ち観覧中、八歳の時石に当たり他界したと誤魔化し密かに暮らし片倉史守信として仙台藩に使えます。やがてころあいを見て真田姓を名乗るとやはり牧夫の調査が入るが家康家臣の古くからの真田であり、德川家臣真田信伊の次男、政信の子であるとか食うの人物を作り上げ、再び片倉姓ら戻し孫の代に正式に真田に復姓しています。

三男 之親 之親は夏の陣にはすでに出生しており、讃岐国石田(細川)民部大輔国弘
に託され成人して権佐衛門と称した。しかし「全讃史」では「大坂城を脱出」した幸村がその2年後にもうけた男子としている。没年年月日は不祥。香川県長尾町の真田墓所に眠る。

四男 幸信 元和元年(1615年)7月14日に母隆清院の姉の稼ぎ先、梅小路家の知人宅で生まれる。
寛永3年(1626年)姉、なほの婚家、岩村家に迎えられた。のち380石で出羽亀田藩に仕え、寛文7年(1667年)53歳で死去。

現在の子孫は、繋がっており信州上田松代十万石まつりの真田行列に参加しています。
兄、信之(信幸)の信州真田家は現在14代真田幸俊さんも殿と呼ばれ、仙台真田の殿、信州真田の殿の両名が松代十万石まつりに参加しています。
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